新い気付きとその波
ここ2年ほど前から祖父母の家で過ごす時間が増えた。もう祖父母はだいぶ前に必要なものは持ち老人ホームに入った。週末には実家に帰るがほとんどの平日は、その家で好きな時間を有意義に過ごしている。
やることは大きく分けて二つ、創作と片付け。しかしよく考えると片付けにかけている時間が多い。なぜなら家に残ったものと自分の持っているものが混ざってきているからだと思う。基本的に家に残っていたものは捨てたり寄付したり売ったり、あとは自分のモノにする。
この自分のモノに引き継ぐ作業に問題があったと思う。お金を払って買うわけでも取りに行くわけでもない、すぐそこ目の前にあるからつい安易に選択してしまう、いやもちろんとても役に立つものも沢山ある。自分の物の整理に関しても消耗品以外頻繁に買ったりしてこなかったが、貰ったり拾ったり、タダで物を手に入れるのが上手いゆえに沢山所有していて今更手放しにくい状況。
しかし結局一番ゴチャゴチャしているのは自分の頭の中だった。
そしてこの現状に慣れ始めてしまっていた事に気づいた。それは少し背の高い引き出しを壊している時だった。これまでも自分が使わない古くて安い家具を解体し捨てていた。今回も同じようにハンマーを巧みに使いバラせる所はバラし、大きめの板は体を使って壊し始めていた、なんとモロい事だろうダンボールとさほど変わらない質、安いものってのは本当に質も低いんだなと思った矢先、ふと家の壁を見た。
この家はもう30年は建っているだろうか、古いのはわかるが実は買った後でわかった事で家の下に産業廃棄物を埋め立てて作っているので経年とともにゴミが崩れ、そこに生まれた隙間に家が沈みかけているのだった。一度コンクリートを流してもらっているが、庭側の部屋は鉛筆が転がるほど傾いているし、その勢いに引っ張られた壁に亀裂が入っている。この壁も漆喰と汚れた壁紙、いま引き出しの板を立てかけている扉もベニアじゃないだろうか、ハンマーで殴れば一瞬でバラバラだろう。そう思うと虚しさと怒りのようなものがこみ上げたが、これは誰かに文句を言ったり物のせいにする事じゃないと我を取り戻すことができた。この家を自分が買ったわけではないからというのもあるが根本的な問題は自分の他人本位なところだろう、だれかに任せていること、物に対する意識の足りなさだった。
今や建売の家に大工の魂なんか無い、これは実は実家の真横に家が建ち始める経過を垣間見ていたから言えることである。これの詳しい話は別で載せるが実家の横にあった自然は消え家が建てられ始めた。建売はでき上がるのが早い、ほぼ組み立て式ではっきり言ってプレハブである。祖父母の家もこのプレハブと変わらなかった、いやそう捉えた方がしっくりくる。
ここでもう一度言いたいのはだれかが悪いということではない。
それを無意識に選ぶかもしれない自分がいることだ。
意識して物を持つこと。物に対する自分、自分に対する物、この順番はどちらでもあってもいけない、自分=物 が同じものであるべき、なぜなら自分が持っているモノとは大抵目的として自分の生活を良くする道具、商売道具だ。商売といってもお金を稼ぐことではない、結果的そうなる事もあるが、自分の人生というパフォーマンスに欠かせない道具、いや体の一部といっても差し支えないだろう。これは物質的な考え方に聞こえがちだが、物理世界で物質にこだわることは悪くない。がしかし物を所有するなら、それが自分の質(金銭的価値ではなくクオリティ)を上げ下げするということを意識しなければならないことという話だ。
質と意識の関係として愛着と意図がある。愛着は物に対する思い、これを怠ることは家族や友人を大切にしないことなんら変わりはない。意図とは目的、なんのために持っているのか、ただ飾るとしても意図が有ると無いでは違ってくる。逆にそれらがないのに物を持つことはも人や物というより自分に対して失礼だ。自分の質を自分で下げている。
ここで同時に一つ自分の中にあるものが出てきたそれは創作意欲だった。
俺は家は買えない、家を買えるほどのお金もないしこれから稼ぐような気もしない。でも自分で作ることは出来る!そう確信した。
いつも、すでに誰かによって作られたものデザインされたものを発見し”先にやられた”感を味わっていた。
自分で作る、もしくは自分でちゃんと選ぶ、これの大事さはオリジナリティを求める他に”意識”を持ちやすいという事にある。もし一から家を作るとなれば隅々までこだわる、意識を行き届かせる、この素材でこの配置で、と住む自分のことを考え愛情と意図を持つ。
帰ったら何するか、今月の給料はいくらだ、と考えながら作られたプレハブ小屋とは違う、建築家や大工さんの作る家の何がいいかっていうとブランドネームではなく、そこに良い家を作ろうと思う気持ちがあるからだ。
家を自分で建てようと思わない人は少なくとも作っている人を知る、中古の家を買う人はわかる範囲の事を知るのが条件とも思う。もちろん愛情を注ぐことが一番大切。
ここで急に何処かに行き家を建て始められるか?と聞かれればもちろんノーだ。
いずれどかに行こうという思いはあったものの、徐々に薄れていっていたのかもしれない。だがこの家の傾きを改めて見直した時、このまま住み続けられるのか?疑問が浮かんだ、いまは梅雨もし家が崩れたら家財が濡れてしまう、いるもの要らないものがごっちゃになった中で本当に必要なものを失う可能性がある。自分の商売道具、失ったらその時はその時だが、まだ防げる事を粗末にはできない、そう思った瞬間、ある種の時間を感じた。いまやるしかない、自分のことを先延ばしにしていた怠けていたかもしれない、時間という自分の所有物、そう質を下げていたんだ。
ここからのスピードと集中力はすごかった、少し焦っていたかもしれない、でも全力だった、そう自分の可能性の限界ラインをあげていた。本気、全力、今はベストな状態、このベストとは何かと比べてのことじゃない自分の一番良い状態、マックスの情熱とやる気に満ち溢れた本来の姿。
でもいつでもその本来の姿だという事に気付かなければならない、今出来ることが自分の可能性、高い所、低い所と区別せず真ん中から移動していく一本の線。問題を見つけても一歩一歩やっていかなくては根本的な解決にはならない。単純なことだが身をもって感じることだった。理解に体験は不可欠。
ここからが本題、新しい時代、その傾向としてはお金の価値観の変化、手放しと選別、移り変わる現状。祖父母はこないだあとを追うように亡くなった、そして家も崩れかけている。これは時代の変わる印、他にも2020年は沢山のリセットとリスタートがある。特に自分は大したことではないのを知っているが世間で話題のアレは自分に気付くまでの時間を設けてくれた感謝すべき事と捉えている。自分があって物事があるしかし関係はイコール、一つなんだ、だから自分のパフォーマンスで周りのことが変わってくる。さあ今も一番良いクオリティだって事に気付き共に進もう!
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